〈ケア〉を考える会‐岡山(第13回)

20141109 第13回〈ケア〉を考える会‐岡山/チラシ.pdf
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■日時 : 2014年11月9日(日) 14:00~16:30  
■会場 : 川崎医療福祉大学 本館6階 6001演習室(定員35名)

■会費 : 無料  どなたでも参加できます。気軽にご参加ください。

■テーマ: 障害受容と芸術 -障害受容からの解放-
     存在を肯定するための"disability-inclusive arts"の提案

■発表者: 田中 順子
( 川崎医療福祉大学 リハビリテーション学科 准教授/作業療法士 )

――「障害受容なんて一生かかってもできないんじゃないかなあ」といった障害者の声を聞いたことがあります。[‥‥]
 作業療法士の私は、自分の病や障害を受け入れることができない患者のやり場のない怒りや切なさ等をどれだけ自分が理解し、支える努力をしているかということを自問自答させられることとなりました。そして、障害を受容できるように援助するよりも、障害は受容しなくてもいいということを伝えられる医療者になることのほうに意義があると思うようになりました。――

   (田中順子著『患者と医療者の間で』 p.147より)

■■〈ケア〉を考える会‐岡山(第13回)記録■■

大阪大学の青木さんが記録したものを、発表者の田中さんが一部修正しました。


2014/11/09

第13回<ケア>を考える会-岡山

会場:川崎医療福祉大学

発表:田中順子

記録:青木健太(田中 修正)


<ディスカッション>

・介護する対象者の「受容」を求められる介護者を受容してくれるのは誰なのかと思う。相手のことを受容するときに自分のことが頭の中にあるとうまくいかない。どちらにしても「受容」ということに縛られてしまっている。


→(田中)「受容」できてもいいしできなくてもいい。「できる」「できない」とはっきり分けられた二元論とは異なる考え方をしたい。自己「受容」はとにかく自分で自分を意識的に肯定することから始まると思う。周囲の人はその人の存在を肯定することで、その手助けをすることができる。


・障害を「機能不全」ではなく「生活困難」という文脈で考えて支援するようになっている。障害があるかないかではなく、障害を精神的or身体的特徴として捉え、支援することが大事。


・アートについて福祉は積極的だが、医療は無関心。


・「障害」を「受容した」とは?


→(田中)障害に伴う悲哀は消えてなくなるものではない。「これで受容しました」という段階はないと思われる。医療者も「障害受容」という言葉が何を意味しているかを分かって使っているのではないことが多い。「障害受容」という言葉は簡単に使うべきではない「要注意言葉」。


→自分の現状を「受容」して将来を考えるとしても、それは同時にそれまでの自分の生き方を変えてしまうことになる。そうした葛藤が自分の状態を「受け入れる」ことの難しさにつながる。「受容できるか」「受容してしまっていいのか」という迷いからくる受け入れがたさ。


 →(田中)人間の考え方ではベストに思えなくても、もっと大きな存在(神)からみたときに、それがベストなのだという信念がある。自然にはそう思えない場合でも、自分の中で意識的に「これがベストだ!」と言い聞かせて、「受容」はできなくても「納得」にもっていければいいと思う。


・施設の中では「障害受容」という言葉は聞いたことがない。知的障害を持っている場合、自分の障害を悲観するということがないので、むしろ家族が「受容」できているかどうかが見えることがある。家族が障害をもつ当人に社会での失敗を経験させたりするようになると、感覚的に「受容」ができているという感じがある。


・医療現場で「障害受容」はどんなとき使われる?


→(田中)頑張ってリハビリしようという意欲のない患者にむけてさりげなく「あの患者はまだ障害受容ができていない」と使われることがある。


→リハビリに対する意欲を基準にしている医師もいる。医師の提案に応じるかどうかということを「受容」の基準に考える場合もある。


・「受容」は「諦め」を肯定するレトリックになっているのではないか。若い人ほど「諦める」ということとは距離感がある。


→(田中)若い人には「受容」ということ自体がピンと来ない。


・(田中)病に意味づけをすることが重要だという考え方があるが、そうしたからといって「痛み」は消えず「受容」にはつながらなかった。


・医療が提供してくれるのは「痛みをとること」か「人生の肯定」までしてくれるのか。


→今の医療に「人生の肯定」を求めるのは難しい。今の医師は言葉では「治せなく」なった。


・辛い治療をなんとしても避けたい時など、「受容」とは明らかに異なる「諦め」もあると思う。一方で、治療によって自分の人生の先が開けると考え選択することは、「諦め」と異なる。


→(田中)長い入院生活の中で何かを諦めたとしても、それが当人の中で望ましい生き方になってしまえばそれはそれで良いはずだし、肯定されるべき。医療者が社会の風潮の中で何でも地域に戻すことが正しいと考えるのは良くない。ただ、一方で病院の外との懸け橋はつねに用意できるようにしておかなければならない。




  「マツムシソウ」  下蒜山にて
  「マツムシソウ」  下蒜山にて

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