20160123 第23回〈ケア〉を考える会‐岡山/チラシ.pdf
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『ケアの宛先』ノート

   「ケアを語る流儀と作法」より

 

 

▼正面から向き合って話すより、横に座って同じ方向を向いて話す‥‥

徳永 患者さんの話を聞く時、(‥‥)ソファにいっしょに腰掛けて、同じ方向を見ながら話した方が、医者と患者という役割を離れられるし、人間同士として、魂というような次元のことを含めて、広い視野で話し合える気がします。
鷲田 いろんな面談のときも、正面から向き合って話すより、90度横に移動した位置で話すといいって言われますよね。

徳永 90度か、横座りもいいですね。飲み屋のカウンターですね。 (101頁)

心はどこにあるか‥‥ 

徳永 心って脳にあるという考えに反対なんです。

(‥‥)心って身体のいろんなところに秘められていて、というか潜んでいて、その時々、場面場面でいろんな部位を通して発現してくるんじゃないか。だから、身体全体が心が展開する場なので、心イコール脳だけじゃないんですね。

鷲田 「皮膚と皮膚が、表面と表面が合わされるところに魂が生まれる」と言ったのは、ミシェル・セールと言うフランスの哲学者です。

(‥‥)ものすごく深い意味があるんじゃないかって僕は思います。 (105頁)

 

▼ぐずぐずする権利‥‥

鷲田 1990年代のフランスでできた法律から、僕が勝手に造語したんだけど、意訳すると「ぐずぐずする権利」ていう法律があったの。(‥‥)。
生命倫理について、たとえば遺伝子操作とか、生命中枢を操作するような医療行為を受けるときには、すぐに結論を出してはいけない。一カ月間は結論を出してはいけなくて、その間に、同じ病気を持っている人に相談したり、セカンドオピニアンを受けたり、いろんな人の話を聞いて、ああでもない、こーでもないってぐずぐずするの。それを最低でも1カ月は経た上で結論を出しなさい、という法律があった。さすが哲学の国や、素晴らしいなぁと思ったんです。 

徳永 我々日本人は、ぐずぐずが下手なんですね。(‥‥)ぐずぐずする権利って、素晴らしい。(‥‥)。

鷲田 「よたよたする権利」とか「おろおろする権利」なんて、臨床現場にはぴったり。(‥‥)つまりね、割り切らないことが大事なんですね。今の政治なんて、割り切りすぎです。シンプル・イズ・ベストってやっぱりおかしい。(107108頁)

 

いい介護施設の見分け方‥‥

鷲田 私の教え子で哲学に絶望して大学を中退した知人がいます。(‥‥)。今は、阪大で教師をやっています。(‥‥)。「いい介護施設って、どこで見分けたらええの?」って彼に聞いてみました。そしたら、迷いなしに「大きい声がせえへん介護施設がいい」って教えてくれました。要するに、スタッフが「だれだれさーん、ちょっと手伝って!」とか、「だれだれさん、だめよ、そっちに行ったら!」というように、大きい声がしている介護施設はだめだって言うんです。(‥‥)。

彼もうまくは説明できないんですけど、(‥‥)。空気とか気配みたいなものを、彼は「大きな声がしない」というふうに表現してくれたと思うんです。 (111112頁)

 

スポーツとケアの類似性‥‥

鷲田 野球だったら、監督というリーダーがいて指示を出します。一方、サッカーでは選手自身がある意味で「監督の目」を持って、いつも全体をケアしていきます。サッカーでは、「ボールをケアする」って、「ケア」という言葉を使うんですってね。つまり、いつも全体を見ていて、あそこの手が薄そうだと感じたら臨機応変にそこに自分が走っていく。しかも、全体をケアするという目線を全員が持っていないと、強いチームにならないし勝てない。そこがサッカーの素晴らしさですね。 (119120頁)

 

「死者を育てる」ということ‥‥

鷲田 自死遺族の会の方から会が発行している文集をいただきました。その中に、ある若い女性が家族のことを書いておられたのが目にとまったんです。そこには、自分が死んだら、あるいは彼のことを覚えている人がゼロになったら、そのときこそほんとうにその人が死んでしまう、いなくなってしまう、と書かれていました。そこで彼女は、あることを転機に、その亡くなった人のことを言葉にして話したり、あるいは文章に書いたりするようになられた。(‥‥)。

その時フッと、そうか、「死者を育てる」ってそういうことなのかと思ったんです。つまり、その人のことを語ること、その人をよく知らない人にも語ることによって、その人が特殊な、どこどこの家の誰々さんと言う固有名詞を抜け出して、1人の人間の典型として語られていくことになります。こういう生き方をして、こういうことに苦しんで、こういうふうにして死んでいった、こういう人がかつていました、という形で語り継がれていくわけです。つまりね、それが物語として、あるいは典型として語り継がれていく過程で、人と言うのは死んでも死者として残っていくのかなあという感じがしたんですよ。

徳永 (‥‥)。死者が生き返り、死者として生き始めるんだ。(‥‥)。

鷲田 (‥‥)。その「死者を育てる」というアイディアを、あるとき京都の法然院の住職、梶田真章さんに話したら、「仏教ではそれを成仏といいます。その人の良いところだけが一つの形として残っていくことを成仏と言うんですよ」とおっしゃった。

鷲田 (自殺をした特定の誰かのことが)、いろんな人に語り継がれていく中で、誰のことであってもおかしくない、「俺だってもし、こういう追い詰められ方をしたら死を選んだかもしれない」というような形で、みんなが自分のこととして受けとめられるようになる。それが、その人が「典型になる」ということだと思うんです。(‥‥)。

徳永 コミュニティーは崩壊するし、格差社会は進むしという中で、自己責任という考え方が隅々まで浸透してきてしまった。社会的弱者に転落するのも自己責任、自殺するのも自己責任、という空気に支配されています。ここから反転して典型を育てるというか、死者を社会に内部化して、共有化できるかどうかというのは大テーマですね。 (130134頁)

 

フィールドワーカーの矜持

徳永 私がなんで臨床を続けているかというと、臨床場面で起こったことを記録することに意味があると考えているからです。何月何日、こういうことがありましたということを、許される範囲ぎりぎりのところで書いていきたい。そうやって、これまで出会った患者さんのことを、書かせてもらった。自分の仕事はフィールドワーカーだと思っているんです。 (135頁)

 

 


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